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@現在のカルマからの自由 イエスキリストは、弟子達に「私に付いて来なさい。人間を捕る漁師にしてあげるから。」と言い、 彼等は 何を主旨としていたのだろうか。 それは 人々が、日常の暮らしから脱出する事を、勧める行為から発せられている言葉なのだ。 イエスや釈迦の生きた時代には 単語が少なくて、「自由」との言葉が無かったのであろう。 カルマとは、仏教用語だが 日本では業(ごう)・因縁と訳されている。 業は、人の行為全体や、その人の生活全般の背景全部を意味している。 実際に、イエスや釈迦はその様にしたので、悟って「ブッダ(佛)」に成り、神と通じて「キリスト(救い主)」と成ったのである。 中国の老子も、家族や国(社会)を捨て、函谷関の関所から、何処かに旅立ってしまっている。 日本の天皇家の祖とされている神武天皇も、南九州から家や家族を捨てて、旅に出ている。 神武天皇は別としても、イエス・釈迦・老子の生き方を見ると、自由に成る事が 一番のテーマの様である。 私も、37歳の時に仕事も全部止め 家族を実家へ返し、全てから自由に成って、師の下で数ヶ月間の修行をした。 普通の人でも お寺で数日の座禅修行はするし、数時間でも神社の境内で休む事はあるが、 寧ろ、出家に似ているのが、温泉への湯治である。 湯治で、何故病気が治るかと言うと、それは家を離れ、仕事を止めているので、ストレスが取れて、心身ともに休まるからである。 其れ等の事からも判る様に、仕事や家族が如何に、人間を不自由にしているかが解かる。 漢字の「幸」は、手錠の形の象形で、「執」は手錠が掛けられた状態の象形文字である。 幸は、手錠が掛けられていない状況から、「物事全てから 自由に成っている」事を意味している。 中国でも 人間の幸せは自由である事とされていたのだ。 自由は、人類にとって最大の課題である様だ。 自適塾は、その最大の課題である「自由」のテーマから、取り組んで行きたいと考えている。 |
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