「身土不二・しんどふじ」とは、「身体と生活する場所とは 切っても切り離せない 一体のモノである」と言う理である。
特に、その土地の田畑や、山野で採取した食べ物を食べると言う事が、大事であると言う訓えである。
現代の日本人の食生活は、其の食材を世界中から集めて来ている為、身土不二の生活とは、全く違うものになっている。
人間の身体は、季節に合わせて、ホルモン分泌が調節され維持されている。
自然の樹木が、春に芽を出し、花を咲かせ、夏には葉を茂らせて、秋が来れば、実を稔らせえて紅葉し、
葉を落として冬の眠りには入る様に、人間も季節に拠って内臓の働きを調整しているのである。
したがって、東京に住んでいる人が、鹿児島で収穫された筍・たけのこを食べると言うのは、
鹿児島の方が1ヶ月早く春を迎えている為、東京に住む人の体には、1ヶ月早い季節の食べ物を取り入れる事に成るのである。
筍・たけのこは、陰性の食物で、夏の準備をする為に、肉体に働き掛ける物であり、
1ヶ月早く筍を取り入れると、東京で過ごしている人間の肉体には合っていないので、体の調子を狂わせる事に成ってしまう。
季節の違いだけでなく、植物の持っている自然の情報も、土地によって違う。
鹿児島には、鹿児島の自然情報があり、其れを、植物は、その土地の土や、水や、風などから受け取っているのである。
だから、東京の土地の持つ情報とは、全く違うのである。東京の人が、鹿児島の情報を身体に取り込んでも、全く意味が無い。
旬の物を食べる様に考えても、かえって身体の情報混乱を起こす結果となってしまうのである。
また、海辺に生活する人と、山に生活する人とでは、食べ物も生活方法も異なり、考え方でさえ違っている。
その土地には、その土地なりの考え方や、生活の仕方が有るのだ。本来は、徒歩で、一日で往復できる程度の範囲で、収穫された食材が、食べ物としては最も良いのである。
私は、屋久島に生まれて37年間島で生活をしていた。だから、私の身体の細胞は、屋久島の情報を基本として働いている。
私は、人工的に処理された水道水を飲んだり、島外で養殖されたハマチや、狭いゲージで育てられた鶏の卵や肉を食べたりすると、2〜3日は体の調子が狂ってしまう。
其れは、取り入れた食べ物の情報が、屋久島の自然物とは違うので、身体の細胞が混乱を起こすからなのだ。
しかし、現在、私は愛媛県伊予市中山町に住んでいる。
現在、住んで居るこの中山で収穫された物を、収穫された時に食べるのが、理に適っているのである。
今年、この町で今年収穫された「タカキビ」を2月24日に買って来て、ご飯に混ぜて炊いて食べた。
すると、その夜、床に入って目を閉じて暫らくすると、瞼に「タカキビ」の姿が浮かんで来た。
其の映像は、畑一面にタカキビが繁っていて、今まさに花房を出そうとしている姿であった。其れは、植物にとって、一番生命力を持つ時期の姿である。
此の様な、自然の理に適った食生活をするのが、身土不二の原則なのである。
そうする事で、宇宙の法則に従って生きて居る事に成るのである。其れが、仏教で言う「精進」であり、神道でいう「かんながらの道」なのである。
自然豊かな山村に、これ等の知恵を伝える老人と、知恵を授かる童子が居なくなる時が、その国の終わりである。
何故ならば、魂しいは都会で継承されるものではなく、田舎の自然の懐で継承されるモノだからである。
都会で継承されるのは、人間が創り出す文化と文明である。これは、魂を痩せさせる現象なのである。身土不二は、都会には根づかない概念であろう。
若し、都会に其れが解る人が居るとしたら、その人は田舎の出身か、あるいは都会でも、近郊の田畑のある場所で生まれた人なのだろう。
しかし、現代社会の構造は、田舎にまで、都会の風潮が雪崩れの如く流れ込んで来て、其の大事な田舎の伝統も消え掛けている。
何とかしなければ成らない時を、迎えていると言えるだろう。
-2001年3月-