久し振りに、山手に在る実家の畑に野菜を貰いに、自宅から3km程の農道を歩いてみた。

途中の道路の両側には、「石蕗・つわぶき」の花の蕾みが、そこら中に咲き出そうとしている。


歩いて行くと、屋久島に越冬する為に渡って来た、「鶫・つぐみ」や「赤腹・つぐみ科」や「ひよどり」が、鳴きながら飛んで逃げ去って行く。


その情景の中で、私は不思議な感覚に陥った。

私は、自分の肉体的な年齢を考えなければ、中学校に通って居た、其の時のままに故郷の空間を捉えて、なんとも説明の出来ない感情を体験していた。


石蕗の黄色い彩を見て、屋久島の地元では「チックワ」と呼ぶ赤腹が、「チチッ クヮ クヮ」と鳴いて飛んで行く。

その音を聞いていると、10代の頃と、何ひとつ変っていない自分が存在するのである。

其れは、18年間、故郷を離れて旅をしている間には、体験した事の無い感情である。


日本国中、何所でも山も川も海も存在するが、其れは其の土地の山、川、海であり、私は只の訪問者であって、自分の感情を育んで来た、故郷の音や彩ではないのである。


今日、気付いた事は、人間の感情等と言うものは、環境の産物でしかないのだという理・ことである。

コンクリート-ジャングルで育った人達には、自然の中で育った此の感覚を理解して貰おうと想っても、所詮無駄な事であったのだ。

都会で育った人達の感情が、私には理解出来ないのと同じ事だったのである。


私は、東京で二度暮らしてみた。最初は1996年に8月から12月23日まで目黒不動尊の池の横に住み、二度目は1999年5月から2000年6月まで飯田橋に住んだ。


だから、私は、1年半くらいの月日を、東京の人達と出会いながら、話を続けた事になる。だが、私には東京を理解出来ても、東京の人達には、屋久島の自然を理解して貰う事は出来なかったのである。

其の原因が、今日の散歩で理解出来たような気がする。


都会育ちの人達には、思考の基礎パターン(基盤)に自然が存在しないのである。草や、木や、水の香りが感覚に染み込んでいないのだ。

染み込んでいるのは、人工的な音楽や絵画等の、人工的な音と色が思考の基礎に成っているのである。


私の育った家には、テレビもラジオも無かった。父親も、母親も、音楽には一切関係なく、父親の歌声も母親の子守唄も記憶には無い。

父親は、楽器どころか口笛も吹けない人だったから、私の脳の基盤は自然の音だけである。


私が、話している言葉と物事は、都会育ちの人達には、音として耳を通り過ぎるだけで、情景が映らないのである。

だから、都会生まれの人達には、2600年前の「釈迦」や「老子」の言葉も、ただの理屈としてしか、捉える事が出来ないのだろう。

2600年前に生きた彼等が、頭でイメージしていた情景が、都会育ちの人間の頭の中に、映像として浮かばないので、何の事か理解が出来ないのである。


中国の漢字の「故郷」の「故」は、「古く固い」の意味で、「郷」は「故里の食べ物を 向かい合って食べて 響き合う」の意味である。

都会の様子は、常に新しく変貌するので、古くて固くはないし、世界中から食物を集めているので、幼い時の食物を二人で向かい合って食べて、原初体験をする事も出来ない。


ようやく、私には、都会の人達には故郷が無いとの意味が分かって来た。

自然の情景が無い者達が、コンクリートの中で考えた事柄を、田舎にまで押し付ける事が、現代文明の行き詰まりの原因なのである。


自然の色と、自然の音、そして自然の味が大事なのである。ようやく、目と耳との刺激の事は解った。後は、舌の事である。


実家の母親の畑から、採るって来たニラと、屋久島産の飛魚のすり身を混ぜて、油で揚げれば、ツキ揚げの出来上がりである。

ツキ揚げを摘みに、屋久島の芋焼酎を飲めば、其れでもう屋久島の人間にカムバックである。


味は「見る」であり「感じる」ではない。私は「赤腹」と、色で呼ぶのではなく、「チチクヮクヮ」と鳴く赤い胸の鳥を“チックワ”と音で捉える、屋久島の人間なのである。

                                
-2002年11月-





冬の音 冬の彩(いろ)