仏教に「三宝」との言葉が有り、それは「仏・法・僧」で、「ブッダ・釈迦」と、「その教え・経」と、それを学ぶ「僧」が、三つの宝だと言うのである。


私は、どうも、それを聞いて釈然としない気持ちが有る。

日本の神社で、使用するお供えの台も三方(三宝)と呼んで、前方と左右に穴が開いており、神様側だけに1ヶ所穴が開いていない。

これは、穴の開いていない方が、神の世界、四次元を表し、穴の開いている方が、三次元世界を表しているのだろうと思われる。

三次元を簡単に言えば、縦、横、高さで認識する世界と言えよう。


三宝の言葉は、中国の言葉であるので、釈迦の教えの中に三宝の言葉は無いだろう。

釈迦自身が、「自分と 自分の教えが 宝だ」とは、謂っていないであろうと想われる。

仏教の経典が漢字なのは、仏教が中国を経由して日本に伝わって来たからである。

日本に伝わった仏教経典の中身は、中国の老子の教えが明らかに混入している。


釈迦も、老子も、紀元前600年程前の人で、同時代の聖者である。

「玄奘(三蔵法師)」がインドに渡り、中国に経典を持ち帰ったのは西暦645年唐の時代である

。鳩摩羅汁にしても、西暦400年に長安で佛典を訳しているのだから、

1000年もの間、中国には老子や孔子の教えが存在していた事になるので、100%釈迦の教えに変わる事は考えられない。


実際、仏教に使用されている「和光垂迹、和光同塵」は、老子の道徳経に出て来る「和光同塵」から来ていると思われる。

釈迦の教えの中に、和光の概念が有るか、無いかは私には分からないので、あくまで私の推測でしかないのだが、間違いではないだろう。


私が気にしている事は、「三宝」の言葉なので、話を元に戻すと、老子の道徳経の中にも三宝の言葉が出て来る。

「我有三宝 持而保之 一曰慈 二曰倹 三曰不敢為天下先」

(我に三宝有り、持して之を保に、一に曰わく慈、二に曰わく倹、三に曰わく敢えて天下の先たらず)の、文章である。


一の「慈・ジ」は、仏教の慈悲の心や、イエス・キリストの愛の教えと同じものだろう。

二の「倹・ケン」は、足りるを知るで、現状の不足を唱えないで満足する事を意味し、仏教の教えとも同じである。

そして、三は、お釈迦さんやイエスキリストの教えの中には、出てこない様に思える。

其れは、釈迦は行動する事を止める理を教えているし、イエスは「教えを広めなさい」と、行動を起こす事を、弟子達に云ったとされているからである。


老子の場合は、一と二で精神的な事を主に言っているが、三は人を指導する立場に在る者の心構えを謂っている。

「人の前に決して立つな」ではなく「あえて立つな」とは、「自分から進んで立つな」の意味であって、

世の中に必要とされ、他に立つ者が無ければ、其れはそれで仕方が無いとの理・ことではないだろうか。


とかく人間、特に男性は、人の前・さきに立ちたがるものである。

其れは、子供の時の、お山の大将の気分が抜けきれないからであり、其れは男性が雄の本能を持っているのだから、仕方の無い事なのだ。


現在の、アメリカ国の様子・在り方を見ていると、その典型を見ている様だ。

アメリカ国には、カトリック教の信者が多いと聞いているけれど、イエスキリストの教えが、全然守られていない。

其れに、中国や、インドも、老子や釈迦の教えを実行しているとは想われない。


是からの日本国の役割は、人間が幸福になる為の宝は何なのか、その理・ことを世界に示す事であり、また其の時節を迎えていると私は想う。

其れには、老子の三宝が適切ではないかと意う日々である。

                                
-2001年12月-





我に三宝有り