今日は、時間と空間の事を考えていて、「時間も空間も 光のエネルギーの 内側に存在する 現象だと想う」と、言葉が組み立てられて来た。

「光の速度を超えて」これが、私の人生の答えの様な気がした。


私は、自分の一切の行為を捨て去って、解脱を迎え、数ヶ月の禅定の後、屋久島を出発し、全国の雲水行脚(あんぎゃ)の旅が始まった。

1984年11月、屋久島を出発したので、丸17年と5ヶ月が経った事になる。


18年前、屋久島での解脱の時に、感じたり、起きたりした、諸々の現象を思い返すと、全てが、永遠の時間の成せる業と、結論を出す事が出来る。


永遠の時間とは、光の速度の範囲内ではなく、その外側に存在する「おもい」である。

其の「おもい」を、漢字に置き換える事は出来ないが、此の宇宙の誕生を「玄い闇」から見ている、意識の目である。


インドの釈迦も、この意識の目に目覚めたのだ。

其れで、なければ、「この宇宙は 風の如く 揺ぎで始まった」との言葉も生れないし、日本の神道で謂う処の「黄泉のくに」も、意味不明のままと言う事になる。


世界中に残されている、S字マークの二重螺旋の渦も、その記憶を取り戻した者が残した物・印である。

人間の悩みや苦労も、此の三次元世界だけのモノであり、光の速度の内側の現象である。

もっと正確に謂うと、幸福とか裕福とかの事も、内側の現象であり、120歳の長寿を保ったとしても、其れも光の速度の内側の事に過ぎないのである。


人間は、この現実世界に生存している間に、光の速度を超えなければ、死んで霊界に行ってからでは、光の速度を超える事は出来ない。

何故なら、この現実世界こそ、光のエネルギーの完璧な調和の世界だからである。

肉体を失っては、光のエネルギー体を失うので、この宇宙との接触が不可能と成るのである。


科学では、光の速度を観測して、現在の我々の存在する宇宙は137億年前ごろ、目に見えない小さな一点(10pの30乗分の1)から、ビッグバンで始まったとされている。

その理論からすると、宇宙の誕生時点まで遡るには、光の2倍の速度で進んでも、137億年掛かる事になる。

処が、光の速度を超えて、光の速度の外側に出ると、137億年前の世界は、瞬時に、其処に存在するのである。


釈迦の謂う「覚醒の世界」は、光の速度の外側に出て、137億年の情報を、瞬時に捉える事なのだ。

其の理を、捉えて、自分の言語に置き換えるのに、釈迦は一週間の時間が掛かったとされているが、

其れから50年間人々に説法をしたが、弟子の誰一人も、其の事に成功はしていない。


現代の世の中は、教育も進んで、時間とか空間とかの文字も書けるし、意味も分かったつもりでいるが、

時間は時計の事だと思っていて、真実の時間を捉える事は出来なくなっている。

まして、光の速度が1番速いと教えられているので、光の速度の外に出る事など、到底理解出来ないだろう。


昔の人々の方が、学校もなく、自然の中で肉体を持って生活して居たので、神話に有る「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が小戸のあわぎ原で禊をしたら、

左目から「天照神」が生まれ、右目から「月調命」が生れ、鼻から「須佐之男尊・すさのおのみこと」が生まれたとの事が、理解出来たのではないだろうか。


今でこそ、人間の大脳の働きが解明出来て、左脳の働きと右脳の働きが異なると、認識出来る様に成ったが、

数千年も前に、男が生み出す知識の世界が、説明されている事は驚きである。

其れも、光の速度を超えて、現象の内側を観じる能力が備わっていたからであろう。


現代でも、観音力信仰とか、観自在菩薩信仰とかが成されているが、仏像などの物質世界に意識を奪われていれば、

何回生まれ変わって来ても、仏陀に成る事は不可能である。


「伊邪那美命・いざなみのみこと」と言う女性性である、「ナミ・波(空間)」の身から、万物が誕生すると言う物語りは、

男と女の役割・「時間の本体」と「空間の真理」を、古の人が理解していた事の証明である。


大脳が700万年掛けて、積み上げてきた柵・シガラミを捨てて、解脱すれば、誰でも光の速度を超える事が、可能なのである。

其れが、日本に伝えられて来た伝統なのである。


-2002年4月-





光りの速度を超えて