止まる

人間は、何故、座禅や瞑想をした方が善いとされるのか。

其れは、人間が動物であり、動き回る事が本能であるので、それを確かめる為には、自分の行動を止めて見なければならないからである。


人間は、四六時中手足を無意識に動かしている。

其れは、生まれたばかりの頃、未だ起き上がれないで、寝ていて手足をバタバタと動かしていた幼児期から続いている癖である。だから、

人間は、意識的に自分の動きを止め、自分が動物であり、無意識に動き回り、余計な動きをしている理・ことに、気付かなければならないのだ。

それで、座禅や瞑想が必要とされ、二千何百年も続けられて来たのであろう。


人間ばかりではなく、大日如来や阿弥陀佛に釈迦像など、皆座った像であり、其れなりに手の指に動きを止めた仕草がある。

其れ等の姿も、三次元の働きを一切休んでいる状態を示している。


人間を含め、地球の動物は、皆自分を守り、餌を探し、交尾の相手を求めて、鼻・目・耳を使用し、手足や羽根を動かして行動を続けている。

其の動物達の行動は、睡眠中には止まって居る。だが、眠っている時には思考も止まって居るので、自分の行動や存在理由を認識する事は出来ない。


だから大日如来も、阿弥陀佛も、釈迦の結跏?坐も、横に成って眠っているのではなく、坐して瞑目しているのである。

其れが、人間が人間として、存在している意味・価値を示しているのであろう。


人間以外の動物を能く視てみれば、不必要な動きが少ない。

戯れている様子も見られるが、其れも異性へのコミュニケーションであれば、無駄な動きとは言えない。


人間はスポーツをしたり、絵画に取り組んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりして、生活に直接関係のない事に、時間とエネルギーを費やしている。


人間社会は、おかしなもので、生活に必要な大事なことだけを、無駄無く行って居る人は話題として取り上げないで、

無駄な事を行って居る人達は取り上げられ、其れ等の人々が有名に成って、人々の憧れの対象と成っている。


現代人は、大事な件は他人任せにして、余計なことを世間に振り撒いている事が多過ぎる。

其の理・ことに気付いて、余計な動きを少なくし、無駄なエネルギーの使用を止めれば、地球の環境も良くなるし、戦争も無く成り、政治も安定するのではないだろうか。


人の上に立つ、立場に在る者達が、其の理・ことに気付くには、偉い地位に在る者こそ、自分の行動を休んで、座禅や瞑想をして、人間の行動を見詰める必要が有るだろう。

今一度、「生活」と言う言葉の意味を、良く吟味しなければ成らない。


-2004年8月-