昨今、多くの人々が人生に不満を覚えているのは、自分の存在理由が見付からないからである。

人間は、食糧難等で生活自体に追われている時は、生きる事に精一杯で、精神的余裕が無いから悩む暇など無いが、衣食住に満たされると、自分が何の為に存在して居るのか、その答えを知りたいと想い始める。


其れは、現代人ばかりではなく、古代の人々もそうで在ったらしく、漢字の「自分」の語が、「自らを 刀で左右に切り分けて 自分の内側を視る」との意味で出来ているので、

中国でも昔から、自分の存在理由を知りたいとの欲求は強かった様である。


インドの釈迦の教えも、自分の存在意義を確かめる事が一番の課題と成っている。自分の存在理由を知るには、日常の暮らしで生じる柵・しがらみや執着を離れて、自由に成りなさいとの理である。


漢字の「自由」の意味は、「自らを 宇宙で一番大きくて 安心できるものに預け従う事で 自分が自由に成れる」との概念である。それは、親鸞の教えの南無阿弥陀仏を唱える事「自然法雨」と似ている。

日本の「惟神道・かんながらのみち」の考えも、同じ様なものだろう。


インドの釈迦や、中国の老子、ナザレのイエス達の様に、2000年もの昔から聖者とされている人達は、世間の行事や習慣から離れる事を諭している。


其れは、人間社会の有り様が、自分の本来の働きを失するものだからである。

人間は、何かの世間的な動きに自分を合わせてしまって居ると、本来の自分の存在意義を失ってしまうである。


何故、国の教育で「釈迦」や「老子」や「イエス」の教えが成されないのか。

それは、国民が本来の自己に目覚めて自由に成り、必要以外の事を全部止めてしまうと、税金が取れなくなり、国家と呼ぶ社会機構が成り立たなく成るからである。


だから国・政府は、孔子の教えの儒教を取り入れて、働く事が正しく、税金を納める事が世の為だとしているのである。

其の国・政府の政策が成功して、釈迦やイエスの様に自由に生きる者が少なく成り、国民が休まず働くので、山は削られ、河川も海も汚されて、自然が破壊されてしまったのである。


そして、それが何代も続くので、何が真実で、自分は何者なのかが、皆分からなく成ってしまったのである。

其の理を、人々に伝え様として、イエスは弟子達に「小鳥を見なさい。小鳥は明日の事を考えずに 自由に遊んでいるではないか。」と、云ったのである。


釈迦も「出家して自由に成らなければ 真実の道には帰れない」と云っているし、老子は自由を楽しむ為に、一人の弟子さえ採っていない。


己が、何者なのかを知る為には、外に目を向けるのでは無く、自分の内側に目を向けて、静かに自らを見極める事の他には、道が無いのだ。

その為には、釈迦やイエスの像を拝するのではなく、彼等の教えを実行するしか他にないのである。


「わたしが、わたしで 在る為」に、皆が自由に成り、正しき生き物の道を歩かなければならない。


現在では、宗教よりも、自然科学の方が真実の道に近付いている。

釈迦の教えが、宗教から哲学とされて来ているのも、其の流れの一つであろう。全ての人が、ブッダと成る日が近いのかも知れない。


-2004年12月-





人間の存在理由