本来、人間には、産まれた時点では自己が無く、成長しながら、死んで行くまでに、自己を形成して行くのである。


それは、生まれ落ちた時に、母親の顔を視て覚える事から始まり、母親を見ている自分を造り出す事から、自己の形成が整って行くのだ。

赤子の時から、狼に育てられた子供は、自分が狼だと思っており、人間が近づくと恐れて逃げ様とする。それは、人間としての自覚が、一切無いからである。


日本語を調べると「人」の「ヒト」は「霊が止どまる・宿る」の意味なので、本来なら「霊止・霊留」と言う漢字を使用するべきで、「人」の漢字は、「歩いている人」の横向きの姿の象形であるから、

日本の古代人の考えの様に、霊の器の意味は無い。


更に日本語では、「カラダ」に「身体」を当てているが、本来は、霊が宿っていない肉体は「空だ」との意味の様である。


これらの事柄からも、人間の自己認識は、生後に創られていく事が理解出来る。


日本に、古くから傅る古神道の世界は、「祓いたまえ、清めたまえ」で、余計な理屈を取り除く事が大事で、現在の学校教育の様に、必要の無い知識を詰め込むのとは、反対の遣り方だったのである。

人間が、生きて行く為に必要な知識は、そんなに多くは無いのである。


現在の世の中は、人間が生きて行くのには必要の無い事柄が多過ぎて、その余計な事の為に、精神的に余裕を失い、また資源の無駄遣いも行っている。

その余計な事柄が、人間形成の邪魔に成っているのだ。


現在の世の中は、知識の多い者が優秀とされ、静かに必要最小限を守って生きている人は、大事とはされない傾向にある。日本の古神道の教えとは、反対の方向に進んでいるのである。


子供の頃から、本当に、人間に取って必要な事だけを教え、育てる、親や教師が少なく成り、社会全体のシステムも反対の方向に動いている。


余計な事柄を、押し付ける教師が善いとされ、知識を捨てさせ様とする教師は、職に着く事が出来ない。本物の人物が、生き辛い世の中なのだ。

だから、子供達も、本物の人物を目にする機会が無く、正しい自己認識を形成したくても、そのお手本が無いのである。


狼に育てられた人間が、狼の様に暮らしているのと同じく、道から外れた人達に取り囲まれて育った人間は、やはり道から外れている事に成るのだ。


正しい生活の中で、育つ人間を増やさなければ、神霊が宿りたくても、土台の意識が悪ければ、宿る事が出来ない。だから、「霊止」が少なくなって来たのも、ナルホドと納得が行く。


現代社会の世の中に住む者が、徳の有る神霊を受け入れて、正しい知恵の有る社会が出来上がる様に、努力をしなければ成らない時節に至っている。

そうしなければ、子供や若者がお手本とする人物が居ない事に成り、豊かな人格形成の場が生まれないのだ。


人が、霊止として完成する為には、其れなりの場と指導者たるべき人間が、必要なのだ。

社会の中に、誰か一人でも、立派な人格者がいなければ、人々の目標が立たなくて、誰も本当の人生が何なのかが、分からなく成るのだ。


人間が正しい「霊留・ひと」として成長し、自己確立が出来るには、それなりの場と指導者たるべき人が必要なのである。その為の施策を、誰かが取るべき時を迎えている。


2004年11月-





自己を確立して行く