日本の古神道でも、中国の道教でも、インドの釈迦の教えにも、人間の知識が、神へ通じる妨げに成ると有り、
旧約聖書にも、知識の実を食べたアダムとイヴは、神の園を追放されたと、載っている。
其れは、一体何故なのだろうか。
現代の世の中は、知識を増やして、テストで高得点を上げた者が出世して、豊かに成り「成功者」と呼ばれている。
其れは、古代の有名な教えとは、反対の方向に進んでいる理・ことになる。
古代の賢者や、聖者は、間違っているのだろうか。
知識は、言葉や、文字と、数字に因って、組み上がって行くものである。
現代社会の「文明」や「文化」は、何千年も掛かって、其の知識が積み上げられて来たものである。
特に、19世紀から20世紀は、世界の文化が情報に因って、混ざり合った時代と言えるだろう。
情報網の発達に因って、経済活動もグローバル化され、世界は1つのシステムに組み込まれてしまっている。
世界は、知識の荒海の様になってしまい、人々は知識の海に溺れ掛けている。最早、人々は、何が真実なのかが、判別出来ない処に至っているのではないだろうか。
宗教も、哲学も、其の救いの役には立っていない。
其の原因は、人間は、他の生き物達と異なり、言葉や文字が発明された為に、大脳が発達し、
脳に蓄える情報量が格段に増えた為に、自分自身で其の情報を処理出来なく成ってしまったからである。
知識に振り回される事なく、情報を判別、管理出来れば、理性が有る者と成れる。
理性が動き出せば、単なる知識は、知性へと変化する。我々が求めているのは、知識が多いと言うのではなく、知性や理性を高める事である。
人間が、猿と分かれ、猿人に成ったのは、700万年前頃のアフリカでの事だと云われている。
そうであれば、人類は感情的動物から進化し、知性や理性を獲得し始めて、700万年と言う事になる。
我々人類は、700万年掛けて、大脳を発達させ、言葉や文字を創り出して来たのだ。だから、我々の知性や理性は、700万歳と言う事が出来るだろう。
処が、古代の聖者達は、その事が、神へ通じる為には邪魔だと、揃って謂っているのである。
700万年の時間が、無駄だったと言うのだろうか。猿のままが、良かったと言うのだろう。
そうでは、ないはずである。
其れには、何かの絡繰・からくりが隠されているのだろう。
中国の老子も、図書館に勤めて居たと言うし、インドの釈迦も高等教育を受けている。彼等は、何かに気付いたのだ。
人間が、700万年で知識は得たが、何かを失っている理・ことに、気付いたのは明らかである。
其の理・ことに気付いたのは、老子や、釈迦ばかりではなく、他にも大勢いたのである。
ただ、其の事を他人に言っても、真実が伝わらないので、後世の人々に伝わらなかっただけなのだ。
人々が失ったモノ、其れが何なのか。其の事を、人類全体が知るのが、21世紀の世の中ではないだろうか。
700万年の時間に、秘められた謎が、是から明らかにされる事だろう。
-2002年5月-