人間が、生きると言う事の根本の処には、性がある。

草木や、鳥獣も、全て性の営みの力に拠って生き様としている。生物が生きるとは、命を継続する事である。


草木が成長し、花を咲かせ実を着けるのは、この働きの現れた姿であり、他のどの生物も、此の法から外れて生きる物はいない。

此の働きが、遺伝子の姿と成って、記憶を繋いでいるのである。この記憶の継続性こそ、生物の生きる希望と成っているのだ。
 

人間の五感や六識も、この為の道具として発達したものである。人間の體も、この希望が無くなってしまえば、毎朝目覚める事も無く、心臓が鼓動し、肺が呼吸する事も止まってしまうだろう。

生有るものが、生あるものとして存在するのは、この性そのモノの力に因るものである。性そのが、陰陽の働きと成って、互いを求め合い、引き合って、生の運動を起しているのだ。
 

その事の為に、花は 美しく咲き

小鳥は 美しく身を飾って 囀り


鹿や 牛や 山羊は 角を大きくし

猿は 手足を 発達させ

人間は 脳を 大きくして来た
 

人間が、言葉を話し、文字を書き、絵を画き、歌を唄うのも、皆この働きが基に成っている。
 

インドの釈迦仏陀が説いた「ダルマ・法」とは、生命の源となっている、「いのちのみなもと」の働きなのだ。宇宙の森羅万象の働きは、全て陰陽の働きで運動している。

其の陰陽の働きから、何物も外れて生き続けて行く事は出来ない。私

達人類や、他の地球生物も、其の働きの仕組みから、全て外れて生きる事は出来ないのだ。だから私達は、魂の源に辿り着けば、ただ陰陽を感じるしかない事が解かる。
 

日本の神話も、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」の男女の性から始まり、西洋の聖書も「アダム」と「イヴ」の男女の物語から始まっている。
 

「元気」とは、陰陽の働きのバランスが調和されていてこそ、適うエネルギーのバランスである。


現代人は、根本のエネルギーを使用しながら生きてはいるのだが、走るレールを違えてしまっているのである。

命の火を、平和や幸福の為ではなく、戦争や不幸の為に使い、煩悩の火としてしまっているのである。

本来、生命の火は、宇宙との調和と安定の為に使うものであって、地球の破壊の為に使うものではないのだ。


命のエネルギーは、本来は陰陽の働きが和して、未来の創造へと向う為にあるのであって、互いが傷付け合う為のものではない。
 

希望とは、異なる性(はたらき)が求め合って和する事なのだ。

其の働きが、正しく作用している間は、社会は安定し、平和な世の中と成るのではないだろうか。
 

私が、長い心の旅を続け達した結論は、単純な原理に辿り着くことで、終着を迎えた様である。

老子の謂う「雄の何たるかを知った上で 雌の立場に身を置く」その言葉が、置き薬として、ようやく私の心にも効いてきそうである。


-2003年10月-





生きる希望