文化とは、「文・あや」が変化して行く事である。「あや」は、「心の意・おもい」の事だが、「あや・心・意」は言葉に因って組み立てられ、変化して行くものである。

猿と人間の差は、言葉を使い、文字を使用するか、しないかの違いである。


人間は、言葉を使う事で、言葉に自分が振り回され、文字を使う事で、自然の働きから分離して来た。

その為に、人間は常に不安を覚え、元に還ろうとして、神佛を求める行動に走って来たのである。

だから、本来の自分自身に還る為には、言葉に頼る事が無かった時代の、原点に帰らなければならない。


本来の自分に還る為の方法に、祈りの行為がある。

「祈」の漢字は、「人が鈴の飾りの付いた旗を持ちながら、幸福に近づくことを願う様から いのりの意味を表す」である。 〜漢語林より〜 

「祈・セツ」を日本語の「いのり」に当てているが、日本語の「いのり」は、人間の姿ではなく、心の状態を表す言葉だから、

「祈」をする人物が、心の中で何を想っているのかを、考えなければならない。


日本語の「いのり」の言葉の意味は、「いの」が「帰る」の意味だから、神に向かって「いのる」とは、「神に帰る」との意味に成る。

其れだと、漢字の「祈・セツ」と同じ意味を持つ事に成る。

祈る人の姿は、世界共通のものである様なので、人間の行為としては、「?・ひざまづく」事は、理に適っているのだろう。


アルファベットの「B」も、人間が跪いている形で、人間の意味であるし、漢字の「命」の字も「卩」がアルファベットの「B」と同じで、

人間が天の神に対して、命令を待って?いている姿を現している。


因みに「A」は牛の象形で、「令」の頭の△と同じで、「令」の漢字は「△(A)+卩(B)」の組み合わせで、「牛神を ?いて祈る人」の意味である。

そして、知らされる言葉が「命令」の「令」である。


日本語の「いのる」とは、自分の身に、神の意志が降りて来るか、自分の念いが神に通じるのを願うかのどちらかであり、

神・天の意志と、自分の意志が、共通のモノと成る事を目的とした行為である。

現代風に言えば、この世は、全て波動・振動で出来ているので、神の振動に、自分の振動が同調して、波動が同じ物に成り、

神と自分の想いが一体と成る事を、願う行為であると言えるだろうか。


「意・イ」の漢字は、「未だ 音にしない 心のおもい」の意味だから、自分の言葉として、他に話す前に、神と一体と成り、間違いが無いかどうかを確かめるものとも言える。


「話す」の漢字も、人間が「はなす」時には、舌が動くので、「話・ワ」とは「言+舌」の組み合わせで、人間がものを言う時は、舌が動いているとの絵・象形と言う事に成る。

話すとは、自分の意見を他人に向けて「はなす・離す・放す」事だから、日本語ではピッチャーが、キャッチャーに向けてボールを投げる事と、同じ様子を言い表している。


優秀なキャッチャーに出会う事が出来れば、自分の能力以上のものが出て来る事も有るのだ。

其れと逆に、優秀なキャッチャーに、自分が成る事が出来れば、相手の潜在能力を引き出して遣る事も出来る。


「教育」の語は、明治時代に英語の「エディケーション・education」の訳として出来た言葉だとの事。

エディケーションとは、相手の長所を引き出して育てるとの意味らしい。

相手が、説明出来ないでいる胸の内の意いを、上手く引き出してやる事が出来れば、親としても、教育者としても、友人としても役に立つ事に成る。


その理・ことは、人間関係ばかりではなく、神と人間との関係にも当て嵌める事が出来る。

聖者や、預言者とは、神霊の意向を良く受けとれる人物の事であり、神に対して良きキャッチャーと成れる者の事である。

聖者や預言者は、自分の要求を神に押し付けたりはしない。

神霊の意志を受け取り、此の三次元世界である「人間世界」が、神の意向通りに創造される事に、協力をするのである。


言葉とは、人間の為にだけ存在するものではなく、神霊との交信の為にも必要なものであり、

漢字の多くは、神と人間の交信の様子を、絵として画いたものである事が、象形文字を見れば良く理解出来る。


宇宙に存在するあらゆる物質は、「ナミ・振動」に拠って出来ていると言う。光も、音も、物質も、全部ナミに因って生じているものである。

言葉は音の世界であり、文字は光の世界(視覚)と、物質(筆・ペン紙)の世界の組み合わせである。

神と人間の関係性は、全部ナミで出来上がっている事に成る。

その理・ことを考えれば、「いのり」とは、神と人間が、同じ周波数のナミに同調する事であると言えるだろう。


人間は、祈る時に、ひざまづいて両手を胸の所で合す。何故、胸の所で両手を合すのだろうか。

其れは、胸の場所が意識のセンターだからである。


漢字の「文・ブン」の文字は、人間が両手を広げた形で、胸に自分の意いを入れ墨している象形である。

古代の人々は、自分が一番大事とする事柄・おもいを、胸の中心に入れ墨する事で、意志が変わらない様にしたのである。


「文・ブン」を、「あや」と日本語に当ててあるのは、自分の心の「あや(意い)」を言葉に織り込む事を意味している。

そして、織物が発達して、絵柄を布に織り込む事が出来る様に成ったので、「糸」を加えて「糸+文」の「紋」が、生まれたのである。

「意識」とは、自分の心の「意・模様・あや」を織り込む事を、意味しているのだ。

人は、自分の胸に直接入れ墨をする事から、「文・あや」や「綾・あや」に自分の気持ちを依託するように成り、

入れ墨の風習は一般的ではなくなったが、「文」の文字だけは現在まで使われ続けているのである。


私達人類は、自分の胸に去来する「おもい」を、言葉に変えて意識を組み上げて来たのである。

「文化」とは、その言葉に組み込んだ“おもい”が、時と共に変化して行く事を、言い表す言葉なのだ。


私達は、遥か昔の人々が、言葉に織り込んだ“おもい”を伝える事で、文化を発達させて来たのである。

私達の魂とは、古代から続く言葉の「あや」の連続性に拠って成りたって来たものである。

この文章の題を「綴られて行く魂」としたのは、その意味からである。


では、私達の胸に去来する“あや”とは、何処から来て、何処へ去って行くのだろうか。

その根拠は、私達自分自身の胸のセンターに出入り口が有り、私達自身の胸の所から出たり入ったりしているからである。


その理・ことを、昔の人達は知っていて「食国の政・おすくにのまつりごと」と言って、

神と人間の間に立つ者は、言葉を汚さない為に、食べる物を一番大事にしなければならないと訓えている。


漢字の「謂・いう」は、「言+胃」の組み合わせで、「言葉は 胃袋の中に有る 穀物から生じる」との意味の象形文字である。

佛教の中にも「精進・しょうじん」との言葉があり、日本でも禅宗の寺では、台所で食物を用意する者が「典座・てんぞ」と言って、優秀な者が選ばれる。

日本の天皇家の伝統で、一番大事な理は、「天皇・スメラのみこと」の食事を作る「台所(御饌殿・みけどの)」を祭る事である。


この様に、中国でも、日本でも、佛教でも、神仏と交わる者は、食物を一番大事とする理が伝えられて来ているのだ。

食べる物が、人間の魂を左右し、「あや・意」を変化させ、言葉の選択をすると考えられているし、「御饌殿・みけどの」の「饌」の和製文字が、その理を能く伝えている。


現代の日本社会は、言葉が乱れ、日本の大事な文化が若者に伝わらなく成って来ている。

「スメラのみこと・天皇」に成るべき皇太子が、テニスをしたり、英国に英語の勉強に行く前に、するべき事は国内に澤山有るのだ。

いまの儘では、言葉の持つ「あや」は、変な方向に向かい、神の働きと掛け離れた意識が、不幸の綴りを織って行くのではないだろうか。


漢字は、人間の暮らしを相対的に現したものだが、日本の大和言葉は、人間の内側に働く、目には直接見えない魂の働きを表現するものである。

漢字の文字が書いて有るお札だけを、幾ら神社や神棚に張っても、何にも成らないのである。


正しい言葉が有って、道に適った念いがなければ、幾ら祈っても効果は無いのだ。

正しい言葉の「あやの者」が一人でも多く現れて、神(天地)に通じる意いを念じなければ、人類は救われないであろう。


屋久島の方言に、「もう あやが 引っ切れた」と有る。

此れは「自分の想いが 体力的にも 精神的にも、エネルギーが続かなくて 切れてしまった」と言う意味である。


私は19年間、是まで、よく「あや」が切れないで続けられたと想う。

其れは、神の意いを受け取りながら、キャッチャーとしての役目を果たして来たからである。


私は、自分の胸に、どんな意味の言葉を入れ墨すれば良いか、未だ決まってはいないが、

地球生命全体の中で生きている私には、自分一人の勝手で言葉を選ぶ事が出来ない。

島の、猿や鹿と同じ物を饌・ケとして、もう1度、森の中で深く考えて見たいと想う。


-2003年7月-





綴られて行く魂