人間にとって、一番大事な理・ことは「物事を 見詰める力」だと、此の歳に成ってようやく解って来た。

「愛」の漢字も、困っている人を見ている人の姿を現す象形だし、「頑張る」の「頑」も、物事の原点を首を動かさず、頑として見詰めている事を意味している。


「見詰める」とは、観光や 物見遊山で、見物して歩く事とは反対の事を意味しているのである。

「見詰める」を、広辞苑で調べると「視線を はずさず その物に見入る。じっと見つづける。凝視する。」「穴のあくほど見詰める」と 載っている。


私が気付いた事は、「見詰める」とは、物を見ているのではなくて、目の前にある対象を通じて、自分の内側に湧き出して来る、意識上の何かを求める行為自体を、言うのだと想い着いたのである。


人間は、目が見える者であれば、24時間365日物を見続けているが、それは「見詰める」ではなく、物が目に映っているだけの現象であり、意識の表面を ただ通過しているだけの事である。

科学者は、理論を組み、実験を繰り返すので、物を見詰めていると言えるだろう。そうして、科学を此処まで発展させて来たのだ。


処が、精神的世界は本来の姿を失い、建物や金銀に目を奪われ、真実を見詰める者が居なくなって来た。

寺にしても、釈迦の姿を仏像にして飾り、仏像は毎日見ているが、当の釈迦が見詰めていたモノを見詰めようとする者は少ない。

釈迦仏陀が、見詰めていたモノは生命の源点であり、宇宙の真理の本体であるダルマ・法である。


釈迦は、目に見えている現象を通して、目に見えない物の奥に潜む働きを頑として見つめ続けたのである。

穴が開くほど見詰めて、終・ついには宇宙の時空に穴を開け、三世(過去・現在・未来)に通じる、光のトンネルを創ってしまったのである。

見詰めると言う作業は、単に物の発する光の情報を取り込む事だけではなく、宇宙の存在に対して影響を与える事に繋がる行為なのである。そんな事が、どうして可能なのだろうか。


私達の意識は、目の器官が出来てから発生したものではなく、目の器官が出来る前から具わっていたものである。

36億年程前に、最初の生物は岩石を利用して有機物を生産し生きていた理・ことが、科学者の努力で発見されている。


其の、最初の微生物に意志が有ったと考えれば、私達の生命には、遺伝子の発生と共に意志が発生し、遺伝子の複雑化と並行して、意識が組み上がって来たと言えるだろう。


インドの釈迦が、三世の情報に目覚めて、全ての生き物には共通の「いのち」が存在する事に気付いたのは、自分の體・からだの中の情報が、36億年前の原始細胞にまで繋がっている理に気付いたからである。


文字も無く、未だ言葉も無い古代世界に「生きる」と言う存在意志だけが存在し、現在まで、生物は悠久の時間を掛けて、其の形象を変化させて来た。

其れ等を支えて来た「モノ」は、現在・いまも私し達の身の中に、永々と生き続けている原始細胞である。


旧約聖書にも「神は 始めに 自分に似せて 粘土で 人を 創造した」と記されている。

其の事からすれば、釈迦以前にも、生命の始まりの舞台は「粘土(珪素とアルミの化合物)」の海であり、岩石が溶解したミネラルの水溜りから、命が発生した理・ことを知っていた事に成る。


中国の、西遊記に登場する孫悟空も、岩から産れた事にされているのは、作者に同じ考えが有ったからであろう。


旧約聖書には「始めに 言葉有りき 言葉は神なりき 神の名は72」と載っているが、言葉とは人間の意識の事であり、意識が72に働くと表現したものであろう。

孫悟空も72般変化の術を使って玄奘三蔵を助けたとある。

古の人々が、物事(森羅万象の象)を見詰めて、持ち返ったものは、三世を超える意識であり、言葉の発生の秘密と72の枠組みに付いての理・ことわりである。


永遠に瞑目し、物を超えた世界を見詰め続けるブッダの世界こそ、老子の謂う道を行じる者の姿であろう。


-2003年3月-





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