日本語の「いきる」とは、「息をしている」事であり、漢字の「息」の文字は、「自+心」の組み合わせで「心臓(心)から 鼻(自)」へ、呼吸・いきが通じている意味である。
心臓や、肺臓の活動が行なわれている間は、「生きている」と言う。息をしている間が、「いのち」が有る状態だと言えるのだ。
人間や動物だけではなく、海の魚類や海草、其れに陸上の植物達も、皆「いき」をしている。「いき」が停止した時が、生き物の死だ。
「死」の漢字は「一(地平)+夕(頭蓋骨)+ヒ(足の骨)の組み合わせで、意味は「地平線が見える大地に、頭蓋骨(しゃれこうべ)と足の臑骨が、転がっている」様子を示す象形である。
死の漢字は、肉体の行く末を表している絵文字なのだ。
「生命」の「生」は、地面に草木が生(は)えて伸びる姿の絵であり、「命」は「神(宇宙)の命令の言葉を受け取る」との意味だから、
「生命」とは、「植物が宇宙のプログラムに因って生じる」との意味であるので、「生まれる」の意味は少し外れており、「歯が生える」は合っている。
「植物が生まれる」は、「生」の字で良いが、「人間が子供を産む」の意味は、本当は「育」の漢字がそれで、「育」は「毓・イク」が本字で、「結婚している婦人が 子供を産み落としている姿の象形」である。
「いきる」とは、「息を続けながら 子孫(遺伝子)を残して行くこと」の意味の様だ。だから、日本語の「いのち」に、「命」や「生命力・寿命」を当てるのであろう。
日本語(倭ことば)の「いのち」の意味が、本来何を言い当てていたのかは、私には明確ではないが、
私しなりに考えると、「いのち」とは「遺伝子が 姿かたちを変えて いきて行くこと」又は「遺伝子が 変化と継続をする 根源のちから」と、謂えるだろうか。
現在の地球上には、何百万種と言う生物が存在するが、其れ等の元は総て同根であり、いのちは根源から何百万種と枝別れしながら、姿形を変えて、今日に至っているのである。
人間だけを見ても、基本の人形は皆同じでも、一人一人は全部違う特徴を備えている。其れは、環境の変化に合わせて、自分の遺伝情報を組み替えて来た結果である。
他の何百万種の生き物も、皆同じ事を遣って来たのだ。
人間の其々の姿の違いも、森の木々の姿の違いも、遺伝子が自分の意志で行動して来た結果である。
「意志」とは、自分自身で強く「おもう」ことである。おもいの力が、遺伝情報に変化を与えるのだ。
人間の心のおもいが、顔の表情を変化さす様に、生き物は自分のおもい(意念)で、姿を変えて来た。
生き物は、自分で強くおもうしか、環境の変化に着いて行けないのだ。
同種の行動に合わせて、何も意念せずに、ただ同調しているだけの物は、環境の変化に着いて行けず、滅ぶしか無い。
神が、地球に生じている全生命に命じているのは、其の理であり、生の選択(チョイス)は、その者の努力に任されている。
人間は、技術の進歩で、環境の変化に対応して来た。しかし、それもいつまで続くのか分からない。
人間と家畜は、野生の生き物とは異なり、自然の流れとは反対の方向に向かっている。
少しは、「生きる」とはどう言う意味なのか、考えた方が良いのではないだろうか。
-2004年7月-
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